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2008.03.13

珈琲閑題

以前にNHKで「プロジェクトX」という番組があった。
それぞれその道での成功者が、何事かを成しえるに至るまでのドラマを、本人、その周辺の人物、の取材も含めてドキュメンタリー風に描いた人気番組だった。
ご覧になっていた方も多いと思う。
それぞれの、窮地にどのように事を成し得たか、宿命にどのように立ち向かったか、新しいものをどのように人々に認めさせたのか、など、大いに感動を呼ぶ内容も多かった。
しかし、ヤラセの噂が起こると、釈然としないままそそくさ番組は消えてしまったのが残念だ。
ここに取り上げられた方々は、この中島みゆきのテーマソングにあるように、皆「地上の星」としての輝く人生である。自分ら庶民とは頭も心も出来が違う、特別な人のような気になってしまう。

しかし最近とみに思うのは、このようなすばらしいことを成す事が出来た人でも、“そのとき”の心の声はどうだったのか、ということをよく考える。
腹をくくるという言葉があるが、勝海舟の氷川清話に、自分に援助をしてくれた人(名前を忘れた)の話を大切に心に留置くくだりがある。金を儲ける才覚として、よく分からぬ時はあらかじめ相場などの値をその時に決めるのでなく、前の晩に値を決めておくという話が出てくる。その場で決めずその値になったらきっと売るのである。
何事でも、その渦中に即座の判断とは難しいものである。普段に決めておけば、勝であれ負であれその場で迷わずにすむ、平常の心で決めてあるのである。
こと窮地に於いて、状況で心が昂じて何事かを決めてはならない。

「裸で生まれ出たからには、きっと裸で帰る。」
本来無一物、帳尻はゼロ。
これを決めておけばこんな気楽なことは無い。
前の晩が渦中で無いことが条件である。cafe


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2008.03.04

大人の退屈について

大人になり歳を取ると、退屈でつまらない時間というのが増えるのであろうか?
何か、いろいろなものが色あせて見えてくるのは気のせいなのであろうか?
年齢を追う事毎に、時間が早まるような気がするのも、私だけの現象ではないと思う…。
実際、五十代の後半の一年間は、十代のひと月よりも短い気がする時がある。

家具などの付き合いの永いものたちの表情を、日中、まじまじと見つめてしまう時があるが、
そういえば、いつの間にこんな味のある色に変わったのか?まったく記憶に無い。
数十年といえども、つい今朝の記憶と、大して違うものでもない気がしているのだが、
実際には、いろいろなものが変化をしているのであろう。
そんな事は、知らぬが仏、馬の耳に念仏、を決め込んで物事に熱中するのもいいだろう。
しかし、某かの隙間風が、心を寒くさせるのである…。

これは、自分という命に限りがある事を自分が知っているからであろう。
それを正直に心に認めたときに、静かさと孤独が真の正体を顕わす。
自分の存在が消えることは恐ろしい事である。
生まれたからには死んでゆくという自然の道理は、自分にも遣って来るものだというのは、どう思考してみても理性では納得することが出来ない事だ。
心の波を静めて、大きく座るしかない。
…ものが判るということが大人なのである…。
一つの道理として、ドラマとして、この心の寒さすら味わうことが出来うるのも人間である。
魂というものは、けっして現世の煩雑な時間の中にだけ生きるものではないと、私は思う。
まったく退屈と言えども、恐ろしいものが在るものである。
追記
果たして、人生の五十年というのは、百年の半分である。年表で、江戸や、明治というものが判ったような気になっていたが、実際の五十年を生きて、明治維新までの、自分の尺の時間を知り、大仏建立の天平や奈良時代までも、その感覚が支配できそうな気がしてくる。そうしたときに、永久の昔から私の祖先達の魂が、まったく現前する気がしてくるのである。japanesetea


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