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2007.08.30

「寄席」という本

高校生の時にクラスでK口君が小冊子を出した。
ガリ版刷りで、A4を四つ切りにしたサイズであった。
月一回程の不定期刊であったと思うが、残念ながら、ほぼ一年ほどの短命であったと思う。

表紙からクラス有志のそれぞれの投稿寄稿で成り立っていた。
その当時でも、寺山修二風な味を持ったS村の詩やイラストなどが人気であった。
なかでも「高田馬場に雨が降る」、「ばばあは握るか五百円」などの詩のフレーズは、
才能豊かでショッキングなものであった。
また、高田馬場の穴場紹介と称してのジジババの奇妙なミルクホールやら、
朝市のある公園などは、昨日読んだ本よりもハッキリと記憶に残っている。
わたしも、スケッチブックに書き溜めたボードレールまがいの詩などを投稿して不評をかった覚えがあるが、
本というのは時代を経るに従い、不思議な存在感をみせるものだ。
今、クラス会などをするとただちに話題にのぼってくるのもこの本だ。

何故なのか。
理由は分からないが、懐かしさだけではない、失われない何かがあるのかも知れない。
写真もアルバムも色褪せて、このような時も在ったと思い出の世界に入り込んでしまうが、
「寄席」は違う。
私の手許にはもうその小冊子は無いが、まざまざと記憶に浮かんで来るのである。
四十年経った今、何故かそれは色を失う事が無いのだ、むしろその存在の輝度を増していると言っていいのかも知れない。

T島君から聞いて驚いた、
家を継いで旋盤工となったはずのS村は、数年前、何処かでジャズピアノの弾き語りをやっていたそうだ。

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2007.08.28

忘れがたい茸汁

読者は、山間で採れた茸汁を食されたことがあるであろうか。
茸というのは秋の味覚であるが、人里離れた処で食する事が醍醐味である。
その山懐深いところ故に忘れられない味となるものである。

陶芸の里、益子の先にやはり陶芸で名を馳せる笠間というところがある。
三十年も前の昔の話で恐縮だが、そこの山間近くに、
友人の知り合いが古い農家を借りて陶芸の工房にしていて、泊まりに行った事がある。
日も暮れると、そこへの道は真っ暗やみとなる藁葺き屋根の農家で、
その家の夫妻や友人と酒盛りをして盛り上がり、微妙なとこで酒が切れた。
さて酒屋まではあなどれない距離らしい。買い出しを買って出たのはいいが、
鼻をつままれても分からない真っ暗やみを通らないと、村まで出られないのだ。
手を前に突き出しながらの、手探りの畦道行きは、何度も道を踏み外し、
泥にはまり込んでも、ついには酒を持ち帰った。
これほどの闇も無いものだ。

しかし、このような処だから、ちょっとやそっとでは経験出来ない事もある。
秋の山は、茸は採れ放題とのことだ。
すぐの裏山に行けばネズミダケやら、シメジなど多くの茸の種類が篭にいっぱいになる。
われわれは、奥さんが朝取りで裏山で採って来た茸で、茸汁をごちそうになった。
黄色い箒の様な形や、利休ねずみ色とまっ白の塊の茸、
木耳の様なものも混じり、味噌味で整えた、えも言われぬすばらしい汁を囲炉裏端で味わった。
まるで日本の山里そのものを食した記憶となっている。

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2007.08.26

死にそこなった話し

金沢に戻って、市内をうろついて骨董屋や薬屋などのたたずまいを眺め冷やかしつつ、金沢城に行った時の事だ。
私は広場から道をバイパスしようとした。記憶では自分の背丈と同等か、
それよりも少し低いぐらいの高さである城の白い土塀を、勢いよくむ向こう側に飛び越えようとした。
私はてっきり向こう側も平地であろう事を、疑いもしなかった。
うわっ!
飛び越える瞬間大変な事に気づいた。向こう側は落差数十メートルは在ろうかと云う武者返しになっていたのだ。
飛び越えの寸前に大パノラマが視野に広がり、突然鳥瞰図に解き放たれた展開である。
人が芥子粒の様に見えた。かすかに、あ、だめだ、という感覚もあった。

勢いづいた慣性の法則の身体を、もんどりうって塀の屋根瓦にしがみ着かせた。
まったく、すんでの所で止まった。
金沢というと、犀川や武家屋敷町とともにこの事が思い出され、まったく冷や汗をかくのである。

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2007.08.23

トマトの味

前回に恐山に出かけた話を書いたが、これはそれに続く話である。
その次の年、恐山行きと同様にふらりと出かけると、私は東海道線の米原に居た。
琵琶湖を見たかった記憶がある。
そこから何処を、どう通ったやら金沢の駅に降り立った。

相変わらず、着の身着のままであった。
私は、何か日本海がすぐ近くの予感がして、私鉄線に乗った。
しかし、行けども海は無かった。いいかげんなものであるが田舎の畑の中の駅で降りてしまった。
今思えばそこは無人駅かも知れなかった。ホームには私一人で人は誰もいない。
じりじりと夏の熱さだけが空高く膨らんでいった。

ホームの線路の目の前には、トマトの栽培畑が遠くまで続いてた。
海の無いせいだったのか、高い空のせいだったのか。
無性にそのトマトが食べたくなって一つもいで頂いてしまった。
今思えば、申し訳ない事だが、なんとも生温いがこれほどのうまいトマトを食べた記憶は無い。
太陽の暖かさの恵み、そのものを食した気がしたのである。
私は、その名前も覚えていない田舎の駅での出来事だが、
その口の中でトマトの崩れる生温さの感覚とともに、
不思議な、生の感じと太陽の感覚が強烈に印象に残っている。

その体験は、直接何かはまったく分からずとも、大いに感ずるものがあったのである。
私はそこで暫くは来ない金沢に戻る電車を待った。

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2007.08.21

恐山 3

今思うにこの経験は、旅行や冒険などとは本質的に違うものであろう。
シュミレーションではあるが、帰るべき場所を根底から、ひっくり返してのものだ。
結果的には「其処に在る事」への問いから始まっての、稚拙で過激な出発で在ったのだと思う。

しかし、この体験は私にとって忘れ得ぬものとなった。
恐山は、死者の言葉を語るイタコの居る場所でもある。
そして山頂の湖の河原は、幼くして亡くなった子の霊魂が迷わぬように石積みをする賽の河原でもある。
また、ひっそりとした湯治場で、死期の迫った者が隠れるように湯治をするのを見た。
漂泊する霊魂は、死んでなお現世の生きた場所を懐かしんで戻ろうと思うがもはや戻れない。
山の夕暮れ時に、それらがヒトダマとなって湖の上を飛ぶのを一瞬見たような気がする。
現世での念い半ばの魂が、きっと恐山に吸い寄せられて来るのであろう。

期せずして訪れたこの地だが、まさに漂泊のものが集まる地でも在った。
人生の悲劇の果てに出現する恐山は、別れてならないもの、愛すべき子を亡くした者が、寄せて来る処であったのである。
私は戻る決心をした。そのまますみやかに終わりのバスで山を降りた。

話がややっこしくなって申し訳ないが、
人生の心の営みというのは一体何であろう。
毎日、そこで繰り返される生活とは、果たしてどこに続くものなのであろうか。

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2007.08.20

恐山 2 

本州最果ての霊場、ここはイタコが霊を下ろすところだ。
足のむくまま、恐山へは徒歩で登った。
登山道から山頂にある宇曾利湖をめぐる林道を経て、かなりの道のりを歩いた。
小雨の中、私は傘をさしていた、このとき麓からずっと傘の中を二匹のアブが同行した。
飲むと長生きするという、深く苔むす山中より流れ出る湧き水が、深い渇きを癒してくれた。
ほとんど、人に遭わなかったが、正体不明の者に出くわした。

姿は見えないのだが、身の丈は七尺ぐらい在るかも知れない大きな奇怪なモノが、
途中からずっと左側の雑木に紛れてついて来る。
薮の向こうでガサッ、こちらが止まると向こうも止まる。
三、四十分もずっとついて来た、すると、事もあろうか、
薮から突然全身を現し、私の目の前をゆうゆうと横切りいなくなった。
なんだったのだろうか?
まったく表現出来ないものというのは在るものなのである。
今想っても、何だか分からないのである。
私は原生林の中の単独歩行なるものは、人間界とはまったく違った感覚のものである事を思い知った。
何か、自分が一動物として流浪する原体験に近いものだと思えた。

これは、後からの事だが、NHK-FMの放送で偶然聴いた宮城道雄の十三弦の演奏に、
胸が咳き込むほどこの原生林の体験に同調する事に驚きを持ったのを覚えている。

宇曾利湖を四分の三周巡り、反対側にたどり着いた。徐々に小石が増え、積み石になった。
そこはあの賽の河原であった。
湖の空のあたりから河原の石積みのあたりの空間が、何か異様な圧迫で曲っているように感じた。
そして妙に寂しい、人を引きずり込む様なあの緑の色は、深く深く目玉に焼き付いた。

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2007.08.16

恐山 1

私が二十歳の頃、「ふらっと、準備も無しに出かけると、いったいどういう風になり、何処に行くのか。」
の様な事をひどく掘り下げて考え、テーマにして実行動した時期が二、三年、在った。
『人間蒸発』などと云う言葉が流行ったのもこの頃であろう。
当時の話として、煙草を買いに出かけ、そのまま帰ってこなかった人の話がある。
その動機は、タバコ屋に出かけ、ふと見上げた垣根から覗く某かの花が恐ろしく綺麗に見えたのだという。
同時に自分自身がこの繰り返しのまま終わる人生かと思うと、やるせなくつまらないものに思えた、というのだ。

つげ義春のマンガ「峠の犬」もそうである。
物事の動機、人生というものが、何処でどうやって定着して決まって行くのか非常に興味深く感じた覚えがある。
この物語りの犬は、放浪ともつかぬうちに人知れずの生をいろいろの場で送り、違う名で呼ばれてもいた。
それでもいっこうに気にする事も無く、又、犬には犬の宿命があるはずなのだが、
それも漂泊のうちに忘れたようであった。
またその愛想のない犬が無心に遊ぶ姿が、なんとも印象深い。

私は、ある夏、出かけた。もう戻らないつもりで...。
だが、そのような気分は、まったく恐ろしいものである。
何物をも持たず、着の身着のまま東北本線にゴム草履ばきで乗ったのだが、
出かける行く先が無いと云う事は、どう云う事か!?
放浪と呼ぶものとは違うであろう精神の極限でもあった。
当時の私の二十歳の精神は、過激で思いつめたものでも在ったと思える。

足は本州最北下北半島まで向かった。
そこは『恐山』が在ったのである。

つづく

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2007.08.14

カクラバ・ロビを追悼して

 カクラバ・ロビの音楽は、アフリカから生まれた音楽です。ですが、私達の国、日本になんと二十回ちかくも来て演奏し、たくさんの人のこころにアフリカ音楽のすばらしい種を蒔いてくれました。カクラバ・ロビの音楽がなぜ、これほど私達に愛されたのでしょう。

 そこに秘密があります。
 それは、このコギリという木琴の音楽は、ガーナではお葬式の音楽だからです。お弔いのとき、夜通し木琴を叩いてたましいをなぐさめるのです。
 人のたましいがちゃんと迷わずに天国に行けるように、なぐさめる役目を持った音楽なのです。
 アフリカでは、死んだ人の前で、寝ないで演奏したりもします。そういう、たましいに直接お話するような音楽が、日本人の私達には、非常に馴染みやすいものであったのだと思います。

 また、どこかに郷愁がただよう音は、自然に生まれ出たもの達で出来上がっています。
 サバンナの大きな木から二年以上かけて作られる鍵板、灼熱の大地にみるみると育った、とても大きなヒョウタン小さなヒョウタン、ビリビリした声のような音をだすのにヒョウタンに張られる「さわり」、これは岩の裏に丁寧に張られたとても丈夫な地蜘蛛の卵膜です。
 すべてが大変におおらかな素性です。
 …私達日本人も、つい最近まで深く馴染んでいた自然物の世界です。

 振り返ると、カクラバ・ロビの音楽は、珍しさからだけではとてもここまで愛される音楽には、なり得なかったのではないでしょうか。
 別の面から見ると、この木琴音楽は実に不思議なものに溢れています。
 そこには、アフリカの人のみならず人類本来の持つ、単純でいて恐ろしく複雑に重なりあう、ポリリズムという、リズムのおもしろさが凝縮されているのが分かります。
 リズムを組み合わせるおもしろさは、そのまま仕事でも遊びでも同じことです。
 伝統的音楽であるのに、おもしろさを失わないのは、“そこ”がとてもイキイキしてるからです。

 彼の音楽は、同じ曲でも千変万化です。
幾つものリズムやメロディのバリエーションは、湧き出る泉の様に豊富にその姿を変えます。
 音楽で、たましいとお喋りするからには、自由で変幻自在のこころが無くてはなりません。
 専門的になりますが、カクラバの左手が作り出すベースのリズムフレーズはとても正確です。しかし、右手といったら、それをすり抜けるかのごとく信じられないリズムフレーズを刻むことがあります。これは、誰にもまねのできるような事ではありません。
 永年の修行はもちろんの事ですが、何よりも、音楽に天衣無縫に遊ぶこころを自由自在に働かす事が出来なければ、とてもたどり着けない世界です。

 カクラバ・ロビの魂は、かぎりない自由を手に入れて、いったい今、何処に遊んでいる事でしょう…。        

    

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2007.08.08

盗みの果実

小学校の二年か三年の頃だったと思う、盗みをしてつかまった。
名前は伏せられたが、学校の朝礼で言われた覚えがある。
場所は、昔の新宿の淀橋と呼ばれた青梅街道沿い当りだったと思う、
夕闇せまるくだもの屋の店先には裸電球がともり、皿に盛られた果物たちは、異様な美しさだった。

私らは横から眺めている内に取って逃げた。
一緒にいた二三人の友だちも、わっと逃げたが結局、店の親父につかまってしまった。
一人だけでは許されたかも知れないが、集団窃盗だ。
しかも逃げた事もあり、ひっつかまったのだ。

まだ、戦後のどさくさ感が残る新宿ヤミ市は、この街道のすぐ先だ。
親に叱られた覚えも無いので、警察ざたにはならず、
事は学校内だけで押さえられたものかも知れない。
当時の家庭というのは、みんな食うや食わずで懸命だったからだろうか。
校長も、この程度で親にいいつけても意味がなかったのだろう。
社会は貧しさに溢れていたが、人々には寛容の心が在った。
もちろんこれが悪意の有る事件であれば別であるが。

よくよく考えても、詳しい事はよく思い出せない。
いったい何を盗んだのか、林檎なのか、蜜柑なのか、はたまた、桃なのか。
季節も分からない。
ただただ、果物の美しさは尋常では無かったことだけが鮮烈に残っているのだ。
そのせいか、いまだに果物は、みんな不思議な感じがしで好きなのだ。
そして、この件に関して、まったく盗みの罪悪感が薄いのは何故であろう。
私の、物事の善し悪しの付く寸前の時期であったせいだからであろうか。
それとも、誰かにこっぴどく叱られなかったせいであろうか。
いづれにしろ詳細に記憶をたどっても、いつの間にか濃い霧に閉ざされてしまう。

この当時の子供、いや、ガキどもは徒党を組んで行動していた。
低学年でも仲間に加えられ、喧嘩も集団でぶつかりあった。
しかし、ガキの集団ではあっても、悪ではないのだ。窃盗団では無い。
集団の喧嘩や決闘などはしたが、徒党を組んでの盗みの記憶は皆無だ。
この中で、生存のルールを学んでゆくのである。
この事件はまだ善し悪しの判断の希薄な低学年生だけのときに起ったのだ。
もしガキ大将らが其処にいれば、大いなるリーダーシップの元、起きなかった事であろう。

こうして、記憶の向こう側を事細かに思い出す時、
私のこの子供時代は別の生物だった様な気もしてきた。

追記 
私自身の名誉の為にも、その後になって、ハッキリと、
ものを盗んではいけないという道徳がめばえた事を述べておく。


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