柳宗悦「茶と美」を読んで。
歯に衣着せぬと云う言葉が在る。
まさに、茶の湯に関しての言いにくい事を、はっきり言い切っているのが凄い。
いや、根底に在る美についての慧眼は、権威に三十棒をくらわして、目覚めを待つ老婆親切だ。
ここまで、親切を受けて黙っている茶の湯の輩に、味わうべき茶も菓子ももはや無いのではないかと思わせる。
茶の湯が、禅との関係を切れない以上、避けようのない批判である。
私が茶の湯の家元であったら、何もかも投げ出す覚悟で、柳氏とすぐさま茶をともにしたであろう。
これはショキングな本である。
美とは何か?
意識の中途半端な介入が、いかに美を貶めるか。
この本は、本来の「美」の川床をえぐり出さんばかりだ。
すべては柳宗悦が「大名物」喜左衛門井戸と出会った、その瞬間の直感がすべてを支えている。
喜左衛門井戸が、まさに、
朝鮮で生まれたごく普通の飯茶碗であったからこそ、「大名物」に成り得た不思議を思うと、
美というものの深さとともに、軽み、を思わずにはいられない。
私の言う「軽み」とは、真剣さを通り越した先にある、気楽な軽さのことである。
「無」の切実さを取り払ったとこと言ってもよい。
喜左衛門井戸を通して発見された美しさとは、どういうものなのか。
常日頃、普通に平気に、磨かれ、使われ、続けられる物どもは、美もへったくれも無い。
そういう中にこそあるのが、軽みの美である。
それを発見し、茶の湯の美の中心に成しえたのは初期の茶人達だ。
よほどの眼力とともに、真の勇気がなければ、軽みなどは、到底分かるものではない。
私の考えでは、意識そのものは、普通には、あくまでも真剣さを抜け出る事ができないはずだ。
意識と云うのは、言わば、お世話役の茶坊主のようなもので、何もかもお膳立ての中に始終してしまう。
その、茶坊主を休ませ、主人が直接相手になる場合は悠然たるものだ。
反対に茶坊主に、ユーモアや、軽み、を求めても、それを計算し数量化してしまい、
取って付けたような事しか出来ないだろう。
美というものは、ごまかしも利かない代わりに、計算も嫌うようだ。
決してこの本は、古い事を引き合いに出して言っているのでは無い。
又、茶の湯の批判に始終しているのとも違う。
美意識の不思議を説いているのだ。
喜左衛門井戸は、現在進行形の中の心を要求して来るのである。
自ら存在の不可思議を笑うのである。
このような高次の美に関する研究自体は、恐ろしく遅れているのが、現状であろう。
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