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2007.06.27

祖父の書

四十年ぶりに祖父の書いた書が出て来た。
父がしまってあったものを私にくれた。
縦三尺程の半紙に、墨で二行に渡り縦書きに書いたものだ。
春の七草を、せり、なづな、と言った具合に、漢字、平仮名を取り混ぜて、
七種類の名を書いてあるものである。

春の七草の名のられつが、これほどすがすがしいもので在るのには驚いた。
左下に六十三老の文字も在る。
祖父の亡くなった年、六十三歳の時に書いたものであろう。
紙の両サイドは、保存が悪くて破けてしまっているが、
ゆったりとして、気負いの無い運筆だ。
新しい年を迎えられた喜びが行間に見受けられる。

祖父は五十歳で脳溢血で倒れて左半身不随になり、
左手、左足はくの字に曲がったままになったが、
十三年間、不自由を押して、毎日を読経と経学で過ごした独歩の宗教の人だ。
宗教の人と言っても、家族の者にすら宗教を押付ける事は皆無であった。
その亡くなる最後の年の書と言う事になる。

いろいろの思い出が、今どうっと湧き上がって、書く事が出来ない。
しかし、このすがすがしさだけは、今まで気づかなかった。
祖父を、とてもなつかしく、また嬉しく思う。

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2007.06.25

究極のアジフライ

http://food.uf-blog.com/?eid=201650
究極のアジフライなる店に寄せてもらった。
銀座の京橋にある。
メニューはアジフライ定食しかない。
揚げ立てのアジフライを、下ろし大根にワサビを載せ、そこに醤油で食う。
昼は限定六十食、完売とともに閉めるそうだ。
揚げ立てのカリッとした、軽いころもの中に柔らかい身が閉じ込められている。
うまい。
上品な中にどこか粗野が在り、そのへんがやはり、うまい。

アジフライはどこか庶民的で、子供の頃よく食べた。

私が育ったのは、中野区でも新宿に近い、下町の様なとこである。
うねりながら長く続く商店街を抜けるとしばらくの、地蔵様の五差路を入ったあたりに家が在った。
その商店街の、当時の夕方の買い物の活気といったらなかった。
「川島銀座商店街」と言った。「銀座」が名の中にあるほどだ。
その日の食卓にのぼるものを、皆、周辺の主婦が夕方に買に来るのだから凄い。
各家庭の主婦が、買い物篭を下げ、どっとやって来る。
揚げ物あり、惣菜あり、青物青果あり、鮮魚あり、
これらが、裸電球の下につぎつぎと色鮮やかに並んで、目が眩むほどだ。
渋い売り声があちこちから、今の築地市場も顔負けの活気だ。
その真中辺に、揚げ物の店も在った。
アジフライ、コロッケ、ハムカツなどを店頭で食べた記憶が在る。
うまく、鮮やかで、やさしい記憶である。

…その後アジフライは、冷えて固く、だんだん生臭く、骨も多くなって、何時しか食わなくなった。
いつ頃からか、気づくと商店街も活気が無くなった。

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2007.06.20

正義と信頼

私の生きて来た時を振り返り、重要な転機に存在した人達がいる。
一方、そうかと思うと、名も知らない、印象に残る人がいる。

まだ二輪の免許を取って間もない頃のことだ。
真冬の深夜、交通も途絶えた環状六号と甲州街道の交差する付近で、
私の入手したばかりの中古オートバイ、
ホンダドリームCB250が、突然うんともすんとも動かなくなった事があった。
どうキックしても動かない。
しばらくキックし続けて、へとへとにくたびれはてていた。
午前三時をまわっていたと思う。
当時は、この時間の交通量は極端に少なかったと記憶している。
一台の大型オートバイが止まって、声を掛けてくれた。
わざわざ止まり、タンクのコックなどを見てくれたホンダCB750の人。
彼は、数回キックをした後、燃料タンク、コックなど見て、
しばらくして立ち去ったが、アドバイスを残した。

「燃料は来てる、カブってるから、十分ぐらいしたら、キックだ。」
私は、アドバイスどおり、
プラグの被りが飛ぶのを待って、予備タンクでエンジンを始動し、何とかうまくトラブルを脱した。
今思うと、皮ジャンで、ゴーグル、まるでバットマンの様にカッコよい。
私はこの時から、困ってる人を見たら、出来るだけなんとかしようと思っている。

もう一つ、
やはり、調布の神大寺付近で、
大雨の真夜中、車がぬかるみにハマって、サスペンションまでもぐってしまい、
どうにも動けなくなった事がある。
まったく人けのない所だった。
遠くに何か、光がポツンと在るのが見えた。
大雨は止んでいた。歩いていくと、
だんだんに、バスのラーメン屋だと分かった。
泥だらけのなりふりを構わずバスに入ると、数人の人がラーメンをすすっていた。
訳を言い救助を頼んだ。
一すくいのラーメンを残し、少しほろ酔いの男性が、
「ああ、分かったよ、手伝おう。」
と、ニッコリして、すぐ腰を上げてくれた。
なんと、近くだからと言い、わざわざ自分の家まで行って車を出して、牽引し、引き上げてくれた。
こんな事ではとても感謝をあらわす事が出来るものでは無いのは承知で、
幾らかの持ち合わせを、私は無理にも渡そうとした…。
名も名乗らず、「いいよいいよ、お互い様さ。」と言うと、ふいと消えてしまった。
窮地のとき、この人の親切は、私に言葉に換えがたい印象を残した。

世知辛い世の中でイヤになるが、根底に人への信頼は流れつづけている。

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2007.06.14

人類の一歩

月着陸船がいよいよ人類の一歩を踏み出した時に、
私は、Mさんという(前述のMさんとは違う)福島県出身の、
先輩の家でビールを頂きながら、TVを見ていた。

福島のMさんの家は、新宿ガスタンク付近の都営住宅の4階だったと記憶している。
Mさんは、ぼくとつな人柄で、ひげが濃く、無口だが、
何処かぐりっとした目などに、愛嬌が有った。
彼は画家を目ざし、何度か公募展にも入選していたが、私の絵を、いたく価ってくれていた。
彼の部屋には、犬吠岬などに、画架を担いで奮闘して来た現場の未完作品が、幾枚も重ねて在った。
モダンや、アバンギャルド、現代美術などにも、理解があり、
それらの出版物についても詳しかった。

「デッサン勉強するなら、安くてイイとこがあるんだよ。」
彼の紹介で、『新宿美術会』なるものを知ったのだ。
新宿美術会は、デッサンとクロッキーの会で、毎週水曜夜に、四谷でやっていた。
会費さえ払えば、誰でも入会できたのだ。
その会で十年近く、モデルを前に、『存在』についての私の試行錯誤が始まったのだ。
最初、見えるものを、見えるままに、という捉え方から、
見えるものに惑わされず、実在を捉えるという風に変わってきた。
マッスを感覚で捉えたり、周囲背後の空間や、線やキワというものの性質、
場のエネルギー、色、などにも、手が及んだ。
売れる絵を描こう等は、もっての他だった。

それよりなにより、この会の指導者がデッサンの達人で在ったのだ。
それが、画家S先生である。
ある時、奈良に一緒に旅行したときに、東大寺、三月堂の階段前で、こう言った。
「Nくん、あの稜線は凄くイイね。」この一言だった。
極意を伝授された瞬間だった。
寺の屋根の稜線から、軽やかに、何ものか、音楽の様に放出されているのを目撃したのである。
それは、稜線が、形体、内部や、信仰と、すべてと関わって、そこから、『何か』を発していた。
画家S先生は、亡くなってそろそろ十年になる。
「分かる人が一人居ればよい。」
常からそう仰っていたのが思い出される。

これが私の出帆であった。

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2007.06.13

新宿風月堂

『新宿風月堂』…。このお菓子屋の様な名前からは、まったく想像もつかない所だった。

新宿風月堂は、1960年代後半当時、新宿三越南館の裏手の通りの、南側に在り、
二階まで、どーんと吹き抜けの喫茶店で、広々した空間に紫煙が雲のように渦巻いていた。
ここは、新宿のるつぼの一つだった。
広い壁面は、50号、100号サイズの大きなアバンギャルドな作品が架かり、
前衛の新人画家達に無料で貸し出されていた。

中に入ると、学生、詩人、革命家、作家、から、
風てん、ヒッピー、まで、来た者同士が遠慮なく、
社会情勢や、政治、音楽、美術、文学、哲学、演劇など、について、会話、討論を交わす場所であった。
私も、当時、高校生の頃から、友人などを誘い、よく出入りした。
見知らぬ人達と議論や、意見を共感する喜びを味わったが、今はこんなものは無い。

http://www.tokyo-kurenaidan.com/takeshi-shinjyuku1.htm
ココを見ると、その店構えが多少分かる。

いや!?どうも、驚いた事に、当時のビートたけしなど、毎日の様に居たらしい。
新宿風月堂の同窓生と云う事になるのか?

たけしは二つ年上だ、知らんうちに会って、何か語りあっていたかも知れない…。
彼には、浅草というよりも、新宿風月堂のニオイがする。
映画監督やら、小説やら、TVの企画にしろ、どうも、その当時の新宿、新宿風月堂のニオイが在る。
しかも、牙を抜かれ、ほどよく味付けされた、新宿風月堂のニオイだ。
新宿風月堂の同窓生と云う事なら、彼に一言言いたい。
才能の有る人だ、よくも悪くも、いつか命がけの、荒唐無稽を見せてもらいたいものだ。

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2007.06.12

漫画家K・Mさん

漫画家K・Mさんに初めて会ったのは、新宿のマンガ喫茶『コボタン』だった。
もうそろそろ四十年も前の話になろうとしているので、驚いている。
1960年代後半、その頃の新宿は、サイケデリック、ジャズ、前衛演劇、ロック、ディスコ、等がゴチャゴチャに呼吸し、
詩を朗読する店や、ジャズ喫茶、劇団天井桟敷、シネマ新宿、風月堂などの、何かルツボのような場所が渦を巻いていた。
マンガ喫茶『コボタン』もその一つだった。
マンガ喫茶と云っても、今とはだいぶ違う、マンガ家や、マンガ家志望のたむろする店である。
新宿でも御苑に近いはずれにある、狭い店だった。
当時、手塚治虫氏や、永島慎二氏などが、ちょくちょくと顔を出す店でもあった。

忘れたが、たしか漫画雑誌『COM』でココを知ったのだと思う。
かの『ガロ』に比べると、当時は商業誌寄りだと批判の在った『COM』だが、
創刊から、手塚治虫、石森章太郎などのメジャーが、本気になった雑誌だった。
漫画家K・Mさんは、『COM』の第一回公募で最優秀賞を取った新進気鋭の作家であった。
どういう成行きか、K・Mさんは『コボタン』に展示してあった友人のSのパネル作品を、
いたく気に入って買い上げたのである。
二人で、後日、三鷹のK・Mさんのアパートまで届けに云った。
私はまだ高校生だったと思う。
この辺から、記憶が怪しいのだが、
その時そこで、K・Mさんに、クロッキー帳に描いた、私のペン描きの作品集を見てもらったら、
「アシスタントをやらないか」という話になった。
私は、K・Mさんの二人目のアシスタントになるらしかった。
記憶が薄いのだが、
K・Mさんと、そのころ同棲していたK子さん、と、私とで、
こたつを囲んで、何か食べていて、吹き出す程の大笑いをした事が突然思い出された。
その後、ベタやら線引きを手伝った覚えがあるが、期間などは、どれほどなのか思い出せない。
私もまだ学生で、忙しい時に呼ばれる方式だったので、いつの間にか、関係は途絶えてしまった。
群を抜いた新人と噂されながら、
K・Mさんは、コンスタントに秀作を残しつつも、漫画の表舞台には登場して無い。

つい先日、あるHPから、ひょんなことで、K・Mさんの消息を知る事となった。
まだがんばっているのだ!「東大寺お水取り」等の歴史を題材にした作品、
五十年後に残る漫画を!の声を聞いた。
手塚治虫→永島慎二→K・Mさん、と、しらけの無い、
真摯な漫画家の血脈が、そこに受け継がれていると感じた。
また、現在、取材、資料調査に、十年!も掛けている構想を実行中とのことだ。
やっぱり、筋金が違う!
セコイ時代に、売るマンガを描いてればイイ人じゃ無くて、うれしくなった。

http://homepage1.nifty.com/DORA/kousou.html
ここに在る。

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2007.06.07

城からの眺め

昔話ついでに、
Mさんは、私よりも二つ上で、「新宿の哲学者」と言われてた。
歌舞伎町に君臨する、さる有名な『お城』のテッペンの塔の部分に仕事場があった。
建物まるごとが城なのだ!
塔から屋上のテラスには直に出られた。
これはまさに荒唐無稽だった!
そこからの、午前中の歌舞伎町の眺望というのも、実にいい雰囲気にあった。
なにしろ、Mさんは、アルチュール・ランボーが大好きな人だ。
パリの裏町にまさるとも劣らない此処に、生活が、作品化したと言ってもいい。

当時のMさんの住むアパートというのが、初台に在った。
ここは学生等が住んだ、ゲタばきアパートで、
取り壊される事が決まって徐々に、電気、水道、ガスが止まっていった。
Mさんは、慌てるでもなく、空いた部屋を、物置きに使う余裕だ。
電気が来てる最後の夜に、もはや照明はランプに替え、
レコードに合わせて、一緒にギターのセッションをしたのを覚えている。
フレーズに顔がほのめき輝く、凄いセッションだった。
ついにMさんはランプ生活に突入した。たしか、水だけは、大家さんの外の水道を使っていたが。

しかし、電気が無いと言うのは、なんと表情豊かな闇と、落ち着いた時間を手に入れられる事だろう…。
若さに任せて、三日と明けず、Mさんのアパートを自転車で尋ね、共にランプ生活を味わった。
しまいには、画家のS先生まで、泊まりのランプ生活の味わいに引き込んでしまった。
S先生は、けっこう気に入ってこう言った。
「Mさん、…これはイイなあ。」
懐かしい思い出である。

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2007.06.06

愛聴盤 「呪文」

マイク・オールドフィールドの自叙伝が本になったということだ。
題は「Changeling 」
もちろん英語版だ。ここに短いが紹介文が在る


興味深いのは、この本のプロローグが、1978年の精神医療セミナーの受講シーンから始まるという事だ。
当時、彼が、初期の名作「オマドーン」を出して、「呪文」を出すまでの間、数年の沈黙があった。
1970年代の後半の事だったと思う。

この当時、初期の三部作「チューブラベルズ」、「ハージェストリッジ」、「オマドーン」、
という初期の名作が、一年ぐらいの間隔で出されていた。

私は、そのころ、ビーバップや、ブルーノート、マイルス、コルトレーン、ファロー・サンダース、など
ジャズの他、民族音楽をはじめ、ジミヘン、バニラファッジ、クリーム、イエス、タンジェリンドリーム、オシビサ、なども聴いていた。
たまたま、Mさんという、「新宿の哲学者」と噂される、友人の自宅で「オールドフィールド」を紹介され、
聴いてみてショックを受けた私は、この「オマドーン」までを、レコード版が擦り切れるまで聴き込んだ。
次作のアルバムが待たれたが、彼は、沈黙したままであった。

しばらくして、マイク・オールドフィールドは、精神科に入院してるという噂を聞いた。
もうその時に、完全にあきらめた…。
「オマドーン」の後、どの様にしても、彼が、この先、このような凄い音楽が展開できることでは無いと思ったのだ。

その数年後、「呪文」が出たのだ!
それは、今も私の愛聴盤となっている。

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2007.06.05

好きな本

好きな本で、もう一つ忘れていた。
つげさんのマンガ。
随分昔からお世話になっている。
とくに作品では、「峠の犬」が好きだ。

ここにもあるテーマで、「犬の気持ち」というものに例を取ると、
外側からは何とも掴めない、他者の行動とは何なのだろう、とたまに思う。

TVのニュースなどで、普通に報道される事件などにも、その人間のベースにはきっと、
ふと、理屈では考えられない“機”が、ゆるゆると頭をもたげてくるのであろう。

いつも毎日そうだからといって、同じ道を行くとは、かぎらない。
いや、同じ道を行けるとはかぎらない。

人智を超えた問題だ。

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2007.06.04

止まらないプロフィール

ちょっと、好きなものシリーズで書いてみたら、けっこう面白い。
自分自身が、別の切り口が出来たようで、急に客観化される感じなのだ。
…食い物に至っては、
これは、典型的なオヤジの好きなモノだ。
なんとも歴然と、大衆の中の一人だと思い知らされる。

アタマに、大仰に、木琴のとこも、踏ん張って書いてみた。
事実を、その通りに言葉にしてみた。
しかし、なんかこっぱずかしい感じに陥ってしまうのは何故だろうか。

プロフィールというものは、それだけで、読む側はハハン、こんな人なのかと
理解できる便利なものだが、自分で自分を語る変なものだ。

自分の変さを知らないのは、自分と云う事になる。
迷い、よろめき、恥ずかしい自分だが、その自分も何処に居ないと、まったく
人の事のように思えて来るのは、どうしたことか?

もっとも、人はそんなものは、もうとう気にしてはいないはずだ。
そこに、イイだけのレッテルを貼る、自分を見ている自分が、
きっと恥ずかしいと言っているのだ。

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プロフィール

ちょっと、HPの改変で、プロフィールの掲載が無い事に気がついた。
責任所在をはっきりさせるためにも、改変にともない、
何処かかたすみにでも載せたいと思います。

チャンシー プロフィール
1950年東京生まれ
日本人

カクラバ・ロビ、ソーイチマ・ゴトーに、木琴を学ぶ。
アフリカ、ロビ族の木琴コギリに、弩素人として命がけで挑んでいる。

好きな言葉    荒唐無稽、上品
好きな事     不可思議な出来事
好きなモノ    光るもの、電球 真空管
好きな食べ物   おむすび、蕎麦、鰻、鮨、ワサビ、海苔、漬け物
目のない食べ物  饅頭、せんべ
好きな飲み物   茶、BEER、おいしい水
好きな色     金色、白
愛読書      今昔物語、臨済録 禅語録 水木さんのマンガ、杉浦さんのマンガ
好きなCD     マイク・オールドフィールドの『呪文』
(平成十九年六月現在の調査です。)
まだ有りそうですが、こんなトコで。

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「荒唐無稽」と変更しました。

コギリクラブHP大幅改変にともなって、
本日より、当タイトルも「荒唐無稽」と変更しました。

アフリカの木琴の話題だけではなく、
ある程度、情報その他、勝手に気ままに書ける処と、位置付ける事にしました。
まだ、どうなるのか、見当もつきませんが、
つまらなく、読むに耐えないところは、読み流していただけると有難いかぎりです。

よろしくお願い申し上げます。
チャンシー

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